(10)高野と竹野

時空を超えて(10)

前回の話にすこし関係がある話になります。

古墳に生きたまま殉死者を埋めるのを止め、代わりに野見宿禰の子孫の土師氏が埴輪を作りそれを埋めるようになった、という伝承だが、その初めは丹波道主王の娘で垂仁天皇の皇后になった日葉酢(ひばす)媛の墓からだということになっている。

その日葉酢媛だが、物語では、嫁入りの際、一度に姉妹が数人揃って天皇の後宮に入った(記紀により微妙に姉妹たちの名前と人数が違う)と書かれている。しかし、垂仁天皇は美しかった姉の日葉酢媛たちを残して、醜い方の妹は非情にも返してしまった、というのである。
返された方の妹は、「同じ腹から生まれた姉妹の中から、姿が醜いからと返されてしまって、後で近隣の里に聞こえたら、とてもはずかしい」と思い、相楽で木にぶらさがって死のうとしたが、死ねず、弟国の淵から飛び下りて死んだ。
相楽は木にぶらさがったからサガラになり、弟国(乙訓)は彼女が落(堕)ちた国だからオトクニになった。いわゆる地名の由来の話になっている。
であれば、日本書紀には書かれていないが、この近くにある「羽束師(はつかし)」も彼女が恥ずかしいと思ったからハツカシになったという話があったに違いないと私は思うが、それは消えている。

「はずかし」という部分、ここは土師(はじ)氏や泥部(はずかしべ)氏にかかわる部分で、この部分が消えたのは、もしかしたら記紀編纂の時代に近い間人皇后の「はしひと」、あるいは聖徳太子の母で、用明天皇の皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひと。ほかに「泥部穴穂部」とも書かれる)皇女に遠慮があって(不細工で戻されたので飛び降り自殺、だもんな)のことかもしれないが。
泥部で「はしひと」あるいは「はじひと」と読む。
泥は「どろ」以外に「ひぢ」ともいうそうで(土をヒジとルビをふったものが日本書紀にも風土記にもある)、つまり土師氏ハジも泥部氏ヒジも同じで、そもそもは粘土からくる名前ということである。

醜いために返された妹というのは、「汚い泥だが焼いて器にすれば永遠に形の残る物」を表していて、それは記紀の始めに出てくる天孫のニニギノミコトが美しかった木花開耶姫だけ娶って醜かった磐長姫を返したがために、子孫の天皇は石のような永遠の命が得られなくなったという話と構造は同じである。
垂仁天皇は永遠の命を求めタジマモリを常世の国へ遣わせながらも、それが間に合わず亡くなった。何故願いが叶わず死んでしまったか、ということが、泥粘土の彼女を返したからだ、と本来は判るように作られていたのかと思う。
単なる地名の由来説話ではなく、教訓めいた話にもなっていたのではなかろうか。

乙訓や相楽の近くにある羽束師(はつかし)は土器制作に関わる西泥部(かわちのはずかしべ)の居住地であった。
実はそのごくちかく、乙訓に桓武天皇の母・高野新笠の母方の里の土師氏(後に大江氏になる)も集団で居住している。このあたりにはよい粘土が採取できるのだろう。
(この土師氏と泥部氏は、名前が違うから祖先が違うと各々が信じているのはわかるが、ほかにいったい氏族としてする仕事について、どこがどう違うのだろう。興味がある)

さて、戻された妹娘だが、日本書紀では「竹野媛」という。竹野と書いて「たかの」である。
(ちなみにその少し前の開化天皇の皇后も「竹野」で、同じ名前であるが)。
まったく関係が無いのかもしれないけれど、桓武天皇の母は息子が即位した後で「和新笠」から「高野」姓を得た。高野は彼女とその無くなった父のみに特別与えられた名前である。
乙訓を舞台に、高野と竹野、面白い一致である。
偶然かもしれないとは思うけれど。

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尾川裕子

Author:尾川裕子
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