(14)大江匡房と永井荷風

時空を超えて(14)

来週28日水曜日にロイヤルホテルで永井荷風についての講座をするので、ブラッシュアップのため、新たに資料を取り寄せて読んでいるうちに面白いことに気が付いた。

永井荷風の「永井家」はそもそも大江氏だったというのである。
平安時代に多くの歌人や学者を出した、元は土師氏(桓武天皇の母のそのまた母の実家)から改名したあの「大枝」→「大江」氏だというのだ。
大江氏族の中で、平安末期に源頼朝のブレーンになった大江広元という人物がいる。
京都の事情に精通する彼が頼朝のブレーンだったので、難物だった後白河法皇と頼朝がうまくわたり合え鎌倉幕府が成立できたといっても過言ではない。
その大江広元のずいぶん後の子孫が永井を名乗り徳川家康に仕え下総国古河城主になった永井直勝だというのである。その永井直勝の庶子で、尾張国で帰農し製塩業で栄え名字帯刀を許された者がいて、それが永井荷風の先祖だという話である。
つまり姓氏が大江で苗字が永井。
(わかりやすく言えば姓が藤原氏で苗字が近衛とか九条とかいうのと同じ)

永井荷風の先祖はそんなことで「大江」をも名乗り数代前から「匡」を代々名前につけていたというのである。
父親の名前は永井久一郎だが「大江匡温(おおえのまさはる)」ともいい、そのまた父は「大江匡威(おおえのまさたけ)」だったのである。
調べてみたら家紋は大江広元の子孫を称する大名の毛利家と同じ「一文字三星」紋であった。

そんなことで永井荷風の代表作『濹東奇譚(ぼくとうきたん)』の主人公は「小説家の大江匡」なのである。

私が初めてこの作品を読んだ昔「大江匡」という名前を見たときに、実はすぐにリンクしたのは「大江匡房」という名前だった。
大江匡房という人物は大江広元の曽祖父で『遊女記』を残した人物である。
私は古代の遊女や遊びにとても興味を持っていたからすぐに匡房の名前が浮かんだのだ。

そうしたら今回の荷風の系譜で、時空を超えてほんとうに繋がった。
しかも『遊女記』と『濹東奇譚(ぼくとうきたん)』。


もっともこの系譜どこまで信じてよい物やら…。
wikiでしらべると、どっこい永井荷風の先祖は「大江氏」ではなく「平氏」で、長田を名乗っていたところ徳川家康の命令で「大江」を名乗り家号を「永井」にしたともある。
他で調べると大江広元から代々つながる系図に「永井直勝」以下があったりするし、大江氏系と平氏系どちらもまことしやかな系図や話が添えられてあって、どうもわからない。
(系図はえてしてそんなものだ)

どちらにしても途中で養子が入って血がつながってはいないのだが、永井荷風が大江を名乗る一族で「大江匡」を分身とし、娼婦の話や芸者の話などを作品に残したということが、なにより、私には大江匡房と重なってとても不思議で面白い事のように思えてしまう。





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(13)西行の祖父

時空を超えて(13)

このシリーズ、前回、西行と江口の遊女妙との話を書いたが、今回はロイヤルの講座では時間が無くて触れられなかった、西行の祖父・源清経と傀儡女たちの話を書こうと思う。

まず、西行だが、彼は、俗名佐藤義清という。
紀ノ国に領地(田仲荘・粉河寺のあたり「あら川の桃」で有名な所の近く)を持った武家の嫡男で、出家前は北面の武士であった。
8歳の時に父が亡くなり、若くして家督を相続したが、その領地は広大で、わりあい裕福な育ちのお坊ちゃまだった。
父亡き後、佐藤家のことは後家である母が取り仕切ったと思われるが(亡くなった父方の祖父・検非違使として有名だった佐藤季清──『左藤判官季清記』を子孫が検非違使になると仮定して故実を子孫のために著した──は生きていたのかすでに故人かは、ちょっとそのあたりは私の調べが今はまだ)、その母の実家は源氏である。
この時代、結婚が今の形態とは違う。
とくに関西では通い婚(妻問い婚)、そこから同居という形になる。
だから母の実家というものが今とは違って、その育ちの上での精神性に大きく関係してくると私は思う。

では西行の母の実家の主、母方の祖父とはいかなる人であったか。
実はひじょうに変わった面白い人なのである。
名前を源清経という。

監物(大蔵省で出納をつかさどる職)についていた人物なのだが、今様(当時流行っていた歌謡、ニューミュージックというところか)に明るく、ほとんど現在のプロデューサーのような存在だった。
彼のことは後白河法皇が書いた『梁塵秘抄口伝集』にくわしい。

彼は今様の名手で青墓宿(岐阜の大垣)にいた傀儡女・目井のパトロンだった。
目井を愛し、上京させて同棲した。
目井という女性はよほどの歌い手だったのだろう。
性愛の情が醒めて、疎ましく感じ、わざと背中を向けて寝たふりをしたが、その背中に目井のまつげがまばたきして触っただけでもぞっとするくらいにもなったが、それでなお彼は彼女の歌を愛して手を切らず、晩年尼になって死ぬまで、食い扶持を与え、面倒をみたというのである。
背中にまつげが触っても、というあたりの表現はとてもリアル。
これを、目井の弟子で養女でもあった傀儡女の乙前が話したこととして後白河法皇が口伝集にそのまま書き残している。
乙前は後白河法皇の今様の師である。傀儡女を先生と仰いで今様に熱中し、乙前の言う事をすべて信用している法皇の姿を含め、『梁塵秘抄口伝集』は面白い。うまく表現ができ、一本筋が通ったような女が好きなのだろう。だから出会ったときにはすでに数人の子持ちだった丹後局(遊女の丹波局ではなく高階栄子の方)にも参ったのね、とか思ってしまう。

話を戻す。西行の祖父・源清経、である。
彼は才能のありそうな若い傀儡女を自ら弟子にして明けても暮れてもスパルタ式に仕込んだ。
若い傀儡女たちは、夜中はあまりに眠くて水を浴び、まつげを抜いたりして、それでもまだ眠気そうにしながら、必死で歌っている様子だったという。
夜が明けてもなお蔀(現在のブラインドのようなもの)も上げず、いつも延々と歌わせているので、同居していた目井の養女である乙前がうっとおしく思い、彼に、常識はずれではないか、というような事を言って抗議をしたところ、
「若い時はよいが、年老いて容貌が衰え誰も目をかけてくれなくなった時にでも、歌の実力が確かにあれば、聞いてみたい、教えてもらいたい、と高貴な人に呼ばれることもあるだろう」
と言ったという。
譜面もない、録音もできない時代には、歌謡の節は人伝えに伝えられるので、時にあいまいになったりするのだろう。それが、確かなものを持ってさえいたら、手本として大切にされ、芸に身分の上下はないから食べていけるということである。
その通り、乙前は70歳をすぎて後白河法皇に呼ばれ、法皇の師として大切にされた。

これを読むとわかるが、清経自身がかなりの歌い手だったのだ。
彼はそうした芸能者のいるところに明るく、なんでも源師時という人の日記『長秋記』には、清経が案内役として神崎・江口の遊女と遊んだ話が書かれているらしい。
他にも蹴鞠の達人だったというし、監物(けんもつ)はけっして堅物ではなかった(似ているけど字が違う。笑)

さて、その彼は、目井を愛し、長年同居していたとしても、本宅へも当然行ったであろう。
これだけの情のある人間が、自分の妻子に情をかけないわけはない。
目井ならぬ、妻のまつげが背中に触り、鳥肌が立つほど恐ろしく感じたとしても、子供は愛おしい。
特に娘となれば。
自分の家庭で彼は歌を歌っただろうか。
「芸に身分は無い」というような彼の思想は、家庭内に形を変えても何かしらあったのではなかろうか。
また蹴鞠に関しては藤原頼輔が書いた『蹴鞠口伝集』に清経の説が幾つも書かれているそうなのだが(私はあいにく読んでいない)、そこには西行の説も5ヶ所に引かれているらしい。
それを知ると、西行は子供の頃にやはり清経に育てられたか、かなり身近にいたと考えたほうがよさそうな気がする。

そう考えると、くだんの江口の遊女・妙だが、妙と西行の祖父・清経が知り合いだったとまでは思えないが、頼ってみようかと思わせる、下地があったのかもしれない。
なのに断られたので和歌を贈ったのだろうか。


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(12)西行と妙

時空を超えて(12)

おかげさまで17日のリーガロイヤルホテル大阪での文学講座は無事終了いたしました。
おいでくださいました皆様、心からお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

さて、今回、おいでになった方から「西行と妙のくだりが思っていた話と違っていたので興味深かった」と後から言われました。
西行と妙のくだり、とは、能「江口」日本舞踊「時雨西行」の元になる二人の和歌のやりとりとその状況を私が説明したくだりのことです。
せっかくなので、改めて、時空を超えてシリーズでも書こうと思います。

この話の元は、西行が50歳ころに四国へ旅をする途中、四天王寺にお参りしようとして遊女のメッカ・江口あたりで雨に打たれ宿を借りようとして断られた、ということから生じた和歌のやりとりで、西行の家集である『山家集』に載っています。

雨にぬれた西行が宿を貸してくれなかったその家の主人に歌を送りました。
世の中を厭ふまでこそかたからめ 仮りの宿りを惜しむ君かな (西行)
(世の中が嫌になって出家しようとまで思うことなど貴女にはむずかしいことでしょうが、ちょっと宿を貸すのも惜しむのですね)
「惜しむ君かな」、つまり家主に「ケチ」と言いたかったのですね。雨にぬれて西行もよほど困って情けないありさまだったのでしょう。
ところが「惜しむ君」とまで言われた家主は黙っておりません。
次のように返しました。
いへを出づる人とし聞けば仮の宿 心とむなと思ふばかりぞ (妙)
(出家した人だと聞けばこそ仮の宿でもこのような所に心をとめてはいけないと思うのですよ)
つまりは、出家した身の貴方が遊女の里で雨が降っているから家を貸してくれなぞと甘えたことを言ってはいけません。出家したからには厳しい覚悟もあったはずではないですか、ここは俗の中の俗ですよ、というくらいの感じを込めて家主の妙は歌で返したのです。
プライドを持ったなかなかの才女です。
西行はまったくもって一本とられました。

これが西行ではなくタダの僧であっても、僧が遊女に宿を借りようとして断られたというだけで面白い話です。しかも僧はタダの僧ではなく、歌で知られた西行で、その西行を歌でやり込めたのだからめったとない話です。
そのため、この話は、以降どんどんフィクション化されていきました。

代表的な話としては、
妙は平資盛の娘で、源平の合戦以降身を落とし、まずしい舟女郎になっていたが、西行とのこの歌のやりとりの後で語り合いそれが縁で仏門に入った、
というような物語(いろんなバージョンがあるけれど)です。

ところで、このフィクション化された話だと、だいぶおかしいのです。
何がおかしいか。
年代がおかしいのです。
西行が妙と歌を交わしたとき、西行50歳くらい、西暦1168年前後。
源平の合戦は1180年~1186年。まったくもって15年は違う。
しかも平資盛は1158年生まれ(1161年説も)。
おやおや、です。
妙よりも平資盛のほうが年下ではないですか。
(まあねぇ、フィクションや伝承ですから仕方おまへん。そんな事言ったら義経と弁慶だってあの二人あんなかけがえのない仲ではおまへんでした。弁慶のエピソードはほとんどフィクションです。ところで、なんで妙は平資盛の娘にされてしまったんでしょ? おそらく平資盛は歌が上手かったということと、平家の女が遊女にされたという伝承が関係するんじゃないでしょか)

元にもどしましょう。
妙、です。
妙が貧しい舟女郎であったならば、西行はそもそもあんな歌を作りはしないでしょう。
貧しくて、食べていくために身を売る生活の哀しい女ならば、生きているのが厭になることもあるでしょう。
西行が「世の中を厭ふまでこそかたからめ(世の中を厭になることなぞはむずかしいでしょうが)」と相手に歌ったその背景には、きっと、出家しようなぞとは夢にも思わないような、あんがい豪華な暮らしぶりをしていたからではないでしょうか。
遊女妙の住まいは、一宿一飯、頼って行ってもなんとかしてもらえそうだと思ったからこそ、西行が宿を貸して欲しいと頼み、なのに断られたからこそ、「惜しいのか」ケチと思い、わざと歌を送ったのでしょう。弱者である貧しい女だったらば、僧の身でそんな歌を送りましょうか?

実は、平安時代、遊女はさほど低い身分でもなかったのです。
女を武器に身を売りはしたが、歌を歌い、舞を舞う「芸能人」だというほうが判りよいくらいです。
遊女たちは下々の者たちはもちろん、皇族、貴族、名のある武士の寵愛を受け、中には後宮に仕える者もいたのです。
そうした皇族貴族との間に子供も遊女は産みました。
生まれた子供が男であれば父の子として皇族貴族になりました。
女の子の場合、父がはっきり貴族とわかっていても遊女でした。
貴族に列した男子に対し、まったく差別が無かったか、といえばむずかしいかもしれませんが、どんなものだったのでしょう。今でも芸者さんが生んだ息子が父の後を継いで政治家になっていたり、会社の後を継いだりしています。そのようなものだったのではないでしょうか。

後の時代、遊女は芸能者ではなくただ身を売るだけの女になります。
そのあたりから作られる西行と妙の物語の「妙」はドラマティックに変化していくのです。







                                

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(11)八束毛になるまで遊べ

時空を超えて(11)

「手足の毛が、八束毛(やつかげ)になるまで遊べ」と勅命のあった人々がいる。
今日はその話を書こう。

ちなみに一束とは一握り、握りこぶし一つ、八束とはそれが八つ分、というか古代では八が大きな数字の代表なので、手足の毛がオランウータン以上に伸びるまで=生きている限り永遠に、遊べと天皇の命令があったということである。
課役を免じられ、一生を保証され、そのかわり生涯遊ばなければならなかった。
彼らはそれゆえ「遊部」と言われた。
現在の「遊び」ならば、一生仕事もしないで遊んで暮らせる結構な身分、ということになるが、古代の「遊び」は何度も書くが意味が違う。
神事にかかわる仕事で、この「遊部」の場合は死者の鎮魂のための「遊び」である。

伝承によれば、その民は、垂仁天皇の隠し子の「圓目王(つぶらめおう)」の子孫という。

この圓目王は記紀にはまったくでてこない。
「令集解」という平安時代に書かれた養老律令を注釈した書物に登場するので、現代でも知るのである。だから現実にいた人物か、遊部の民が持っていた伝説上の人物かは不明である。
(現在使用しているの本来の漢字)という名前の字とともに、私には非常に興味深い人物である。
(前回の、垂仁天皇へ嫁いだものの醜いゆえに戻され、それをハジて自殺した竹野媛の話だが、古事記では名前が違っていて「野比賣」なのである。実はこの圓という漢字、国構えの中の「員」の下の部分は本来は王が祭祀に使う器のという字でできていたそうで、どうもそのあたり圓目王も圓野比賣もそのストーリーに意図してこの字をあてて名付けられたような気がします)

ところで、令集解では「遊部」とは何か、を、その起こりから注釈しているので、判るようにだいたいを書いてみようと思う。
『遊部は、あの世とこの世の境にいて魂を鎮める氏で、身の終わる事なし。故に遊部という。大和の高市郡にいて生目天皇(垂仁天皇)の隠し子・圓目王の末裔である。遊部は野中古市の人の歌垣の類もこれと同じ(この事はこのシリーズ(9)土師氏と童謡でも書いた)
遊部を負うようになったゆえんは、それまでは代々の天皇が崩御された時には伊賀の比自岐和気氏族が殯宮(もがりのみや)における葬送儀礼に、刀と矛を持つ禰義(ねぎ)と刀と酒食を持つ余比(よひ、よし)による二人一組で従事してきたが、のちに長谷天皇(雄略天皇)が崩御された時に、比自岐和気氏族は絶え、殯宮で七日七夜御食を奉られず、天皇の霊が荒びてしまった。探してみたら、比自岐和気氏の娘で圓目王と結婚していた者がただ一人残っているだけだった。しかも彼女に問うと「女ではその務めが充分にはできない」ということで、代わりに夫の圓目王が供奉し、おかげで天皇の霊が和み、安らかになった。
それで時の天皇(清寧天皇)が、今日より以後手足の毛が八束毛になるまで遊べ、と詔し、彼の子孫が遊部となった』
というような話が書かれている。
(註 私が大雑把に要約したもので少し乱暴なところがあるかもしれません)

ところで、この文章を読むと、そもそも殯宮には代々伊賀の比自岐和気(ヒジキワケ)氏族が従事していたことが判るのだが、
おやおや、
またもや私にとっては気になる「ヒジ」キワケ、である。
ヒジキワケとはヒジの別(ワカレ)orヒジのワンニム(王)。
前回書いた泥部(ハツカシベ)の説明でも書いたように泥はハジともヒジとも読む。
つまり、泥粘土で作った埴輪を古墳に並べ、古墳自体を建築するのが土師(ハジ)氏で、葬送儀礼には比自岐和気氏族が従事していたことになる。
どちらも垂仁天皇にその伝承のスタートがある。
というか、古代の葬式に関わる話が、すべて永遠の命を求めながらも叶わず崩御した垂仁天皇から始まるように作られているのであろう。

ところで、ハジもまた「垣」と同じで境界である。
端、橋、箸、嘴、梯、すべて境界だ。
端と嘴は境目、橋と箸と梯は境にあってモノを渡す物である。

たとえば卑弥呼の墓かといわれている箸墓について「昼は人が造り夜は神が造った」という伝承があるのも、異界との境界を意味する名前の「箸墓」だからそんな伝承が生まれたのだろう。また葬られたのが大物主神と結婚した倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)だから、そんな名前と伝承になったのであろう。
「箸墓は土師氏の墓だ」と推理した学者(土橋寛)がいた。
それに関しては、私は疑問に思うが、ハジ、ヒジともに、そうした境界を意味する言葉で、あの世とこの世の間に供奉する仕事についた人々に付けられた名前なのではなかろうか。

このシリーズはコピペ禁止

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(10)高野と竹野

時空を超えて(10)

前回の話にすこし関係がある話になります。

古墳に生きたまま殉死者を埋めるのを止め、代わりに野見宿禰の子孫の土師氏が埴輪を作りそれを埋めるようになった、という伝承だが、その初めは丹波道主王の娘で垂仁天皇の皇后になった日葉酢(ひばす)媛の墓からだということになっている。

その日葉酢媛だが、物語では、嫁入りの際、一度に姉妹が数人揃って天皇の後宮に入った(記紀により微妙に姉妹たちの名前と人数が違う)と書かれている。しかし、垂仁天皇は美しかった姉の日葉酢媛たちを残して、醜い方の妹は非情にも返してしまった、というのである。
返された方の妹は、「同じ腹から生まれた姉妹の中から、姿が醜いからと返されてしまって、後で近隣の里に聞こえたら、とてもはずかしい」と思い、相楽で木にぶらさがって死のうとしたが、死ねず、弟国の淵から飛び下りて死んだ。
相楽は木にぶらさがったからサガラになり、弟国(乙訓)は彼女が落(堕)ちた国だからオトクニになった。いわゆる地名の由来の話になっている。
であれば、日本書紀には書かれていないが、この近くにある「羽束師(はつかし)」も彼女が恥ずかしいと思ったからハツカシになったという話があったに違いないと私は思うが、それは消えている。

「はずかし」という部分、ここは土師(はじ)氏や泥部(はずかしべ)氏にかかわる部分で、この部分が消えたのは、もしかしたら記紀編纂の時代に近い間人皇后の「はしひと」、あるいは聖徳太子の母で、用明天皇の皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひと。ほかに「泥部穴穂部」とも書かれる)皇女に遠慮があって(不細工で戻されたので飛び降り自殺、だもんな)のことかもしれないが。
泥部で「はしひと」あるいは「はじひと」と読む。
泥は「どろ」以外に「ひぢ」ともいうそうで(土をヒジとルビをふったものが日本書紀にも風土記にもある)、つまり土師氏ハジも泥部氏ヒジも同じで、そもそもは粘土からくる名前ということである。

醜いために返された妹というのは、「汚い泥だが焼いて器にすれば永遠に形の残る物」を表していて、それは記紀の始めに出てくる天孫のニニギノミコトが美しかった木花開耶姫だけ娶って醜かった磐長姫を返したがために、子孫の天皇は石のような永遠の命が得られなくなったという話と構造は同じである。
垂仁天皇は永遠の命を求めタジマモリを常世の国へ遣わせながらも、それが間に合わず亡くなった。何故願いが叶わず死んでしまったか、ということが、泥粘土の彼女を返したからだ、と本来は判るように作られていたのかと思う。
単なる地名の由来説話ではなく、教訓めいた話にもなっていたのではなかろうか。

乙訓や相楽の近くにある羽束師(はつかし)は土器制作に関わる西泥部(かわちのはずかしべ)の居住地であった。
実はそのごくちかく、乙訓に桓武天皇の母・高野新笠の母方の里の土師氏(後に大江氏になる)も集団で居住している。このあたりにはよい粘土が採取できるのだろう。
(この土師氏と泥部氏は、名前が違うから祖先が違うと各々が信じているのはわかるが、ほかにいったい氏族としてする仕事について、どこがどう違うのだろう。興味がある)

さて、戻された妹娘だが、日本書紀では「竹野媛」という。竹野と書いて「たかの」である。
(ちなみにその少し前の開化天皇の皇后も「竹野」で、同じ名前であるが)。
まったく関係が無いのかもしれないけれど、桓武天皇の母は息子が即位した後で「和新笠」から「高野」姓を得た。高野は彼女とその無くなった父のみに特別与えられた名前である。
乙訓を舞台に、高野と竹野、面白い一致である。
偶然かもしれないとは思うけれど。

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プロフィール

尾川裕子

Author:尾川裕子
大阪女性文芸協会代表
日本文藝家協会会員

「晴れたらいいね」というタイトルは、「毎日が明るい日であればいいね」と思う気持ちと主催している文学賞の応募者に「あなたの作品が受賞できたらいいね」という思いを重ねたものです。

応募希望者は「応募希望者へ」と「大阪女性文芸賞」のカテゴリをごらんください。

おしゃべりと食べることお酒を飲むことが大好きです。
文学だけでなく歴史オタクでもあります。
どうぞよろしく。

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